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若竹会代表 竹紫容子

日本舞踊との出会い

子供の頃から和の文化に興味がありました。

同じ団地のおばさんが茶道の先生と知り、子供ながらにお点前を拝見しお抹茶とお菓子で癒されていました。

今思えば少しおませな女の子でしたね。

その頃、母が師事していた日本舞踊に出会い

「踊りって楽しい」と思い始めました。

ただ、稽古は嫌いでした。どうしても稽古に行きたくなくて稽古着の着物や帯の入った風呂敷をお師匠さんの家に向かう途中で放り投げて泣いた事もありました。

お師匠さんは、子供だからと容赦なく厳しい方でした。私が思っている事も全て見抜いていました。

でも、夏休みには合宿と称してお師匠さん家に子供達だけ寝泊りしながらの稽古もなさってくださり、雑魚寝してカレー作って稽古して…

とても楽しい想い出です。

師匠との別れ

進学の事情でお稽古を続けることが出来なくなってしまったのは高校生くらいの頃でしょうか。お師匠さんはとても残念がってくださいましたが、「いつでも戻ってね。待ってますよ」と、送り出してくれました。

そして、大人になって母に聞いたのですが、

お師匠さんは母に「容子さんは華がある。踊りの才能がある」とおっしゃっていたそうです。


数々の習い事

大人になり、就職し結婚して様々な習い事を経験しました。

茶道、華道、料理、油絵、パッチワーク、和裁、小笠原礼法、装道着付、紅茶、プリザーブドフラワー、長唄…

どれも楽しく興味深いものでした。

でも…やはり日本舞踊に戻っていました。

最初の師匠ではなく新舞踊の世界に飛び込みました。歌謡曲に振付けた斬新な踊りは古典舞踊とは違う面白さがありました。

そこで私は名取になり高見彩華として舞台に立つ楽しさを満喫していました。

転機

横浜で再び古典の日本舞踊の師匠に出会った事が今の私のターニングポイントだったと振り返り思います。

横浜の師匠は、それはもう厳しい方でした。

そして、「あなたはパッと見は上手く踊っているように見えるけど、よく見たら下手ね」と冷や水を浴びせられたのでした。

けれど、日本舞踊の基礎を丁寧に指導してくださり、教室の運営を任せてくれたり、大きな舞台に立つ機会を与えてくれたり、これまで知らなかった世界を見せてくれ、全身全霊で私を指導してくださいました。

「いつか、こんな指導者になりたい」と憧れを抱いた事が今の私の礎となっています。


創作日本舞踊

同時に地元では母が私を待っていました。

板挟みになりながらも母と共に創作日本舞踊の流派を立ち上げる決心をしました。

子供の頃に母と師事したお師匠さんのご支援も賜り、古典舞踊でも新舞踊でもない、創作日本舞踊 竹紫流が誕生しました。

最初は地元でも名も知られない流派のため、地域のイベント出演の機会すら与えてもらえませんでした。

ひたすら稽古に励み、高齢者施設で踊らせていただくだけでした。

生徒さんたちが入会しては退会してを繰り返しながら紆余曲折を経て気がつけば令和4年には創流25年になっていました。


今度は私が

家元が傘寿を迎え、これからは私が竹紫流をもっと大きくして創作日本舞踊を広めていかなくてはならないとの思いを強く持ち始めています。

現在、生徒さんは60歳以上の方ばかりです。流派の若返りをはからなければ、会の存続は危ぶまれます。

日本の伝統文化や伝統芸能は同じ危機感を抱いているのではないでしょうか。

日本文化に興味を持ってくれる若者は少数派だと思います。

そこで、このまま消えてしまわないように、日本文化に興味を持ってくれる海外の方々を巻き込み、竹紫流を知って欲しいと考えました。

そして逆輸入のように日本の若者に興味を持って欲しいと願っています。

他ジャンルの、例えば海外の舞踊家との共演やジャズ音楽やオーケストラとのコラボレーション、茶の湯や着付教室との共催など…

未来への夢は止まりません。


9歳から古典日舞の師範に師事し、成人後は新舞踊、高見流で名取となる。その後、再び古典日舞の師範に師事し、国立劇場や鎌倉芸術館などの舞台を踏む。その間、平成9年に北九州市で竹紫栄寿と共に竹紫流を創流。現在は、地域のイベントや高齢者施設での日舞ボランティア活動、和文化講座開催、北九州市のイベントホールでの舞台出演、また後進の指導もしている。

京都芸術大学芸術学部 和の伝統文化コース専攻 芸術学士

令和5年、北九州市若松創作日本舞踊協会を設立。 会長となる。